いろはのJapaBlog

アメリカ在住ママが日本語教師・子育て・バイリンガル教育を中心に発信していくブログ

8月15日に考えた【祖父と夫と子どものこと】

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みなさん、こんにちは!

新米ママ兼日本語教師のいろはです!

 

 

先日、76回目の終戦記念日を迎えましたね。

 

私が小学生の頃、登校日に平和学習として全校生徒で集まって戦争アニメを見たり、体験者のお年寄りの話を聞いたりしていましたが、最近もあるのかな。

今はコロナ禍で、そんなことできないんでしょうが・・・

 

8月15日になるたびに、ふと夏の思い出として思い出します。

 

でも、大人になるにつれて、なかなかそういった学習の機会もなく、お盆の中、過ぎていく1日になってしまいました。

 

実は、今回の8月15日は、私がアメリカへ来て初めての終戦記念日でした。

この記事を書くには少し遅れてしまって、書こうか書くまいか、ずっと考えていたんですが、初めてアメリカで迎える終戦記念日だからこそ、少し書き溜めておきたいなと思い、指を動かしています。

 

タイトルはそのまま【8月15日に考えた 祖父と夫と子どものこと】

 

 

 祖父のこと

私の祖父は大正10(1921)年生まれ。数年前に他界して、今はもういませんが、93年の生涯を全うしました。

大正10年といえば当時の内閣総理大臣原敬が暗殺された年だそうで、なんだか時代を感じますよね。教科書でしか見たことない名前。

 

 

祖父は昭和17年に陸軍に召集され、その後、満洲 → 台湾 → 終戦を迎えました。

 

戦争中のことを多くは語らず、娘である母にも一言も話したことはなかったそうです。仕事一筋で非常に厳しい人でしたが、末っ子の母には甘く、いつも味方でいてくれる良い父親で、孫の私から見ても、母の子供である私たちを大切にしてくれている、いつも優しいおじいちゃんでした。

 

 

そんな祖父が戦争を話してくれたのは、私が社会人になってから。堰を切ったように、私と兄に話し始めました。

 

 

派兵先の満州でいつも上官から私的制裁をうけていたこと。
極寒の中、狂った仲間に井戸に突き落とされ生死をさまよったこと。
東南アジアへと輸送される途中で魚雷の攻撃に遭い、また生死をさまよったこと。
治療のため入院した台湾で終戦を迎えたこと。

 

 

遠くを見るように、自分の失った青春時代を嘆くように、教えてくれました。

 

 

実は私が小学生の頃、夏休みに戦争体験を祖父母に聞こう!という課題があり、一度祖父に聞いたことがありました。でも、その頃の祖父は「よぉ、覚えとらんなぁ」と言って何も教えてくれませんでした。

 

 

その時は教えてくれなかった話を、なぜ大人になった今教えてくれたのか。

小学生に軍の話が理解できないと思ったのか。

老い先短い自分の時間を感じて、次世代に伝えたかったのか。

 

 


今となってはわかりません。

 

 

 

その話の中で「自分の時代は可哀そうだ」とか「今と違って大変だった」とか、そんな嘆きや愚痴は微塵も感じませんでした。

ただ淡々と、記憶をたどり、何が起こったか話すだけ。

 

 

たったひとつ「勝てない戦争だけは、してはいけない」

 

 

この言葉だけは、はっきりと記憶しています。

 

 

*  *  *

 

 

私は祖父が大好きでした。

父親が大嫌いだったのもあって、いつも優しい祖父に父親を重ねていたんだと思います。こんな祖父が父親である母を、心底うらやましいと思ったほど。

 

ですから、祖父が亡くなった時のことを今でもよく覚えています。

 

残業していた夜10時。

母からの電話を切ると、大急ぎで上司に連絡し、休暇をもらいました。

社会人にもなったのに、大粒の涙をこぼして、うまく話せない状態で電車に飛び乗りました。どうしてもっと頻繁に実家に帰らなかったんだろう。どうしてもっと電話しなかったんだろう。

 

あんなに祖父が大好きだったのに、なにひとつ返せなかった。

 

 

 

 

あれからもうずいぶん経つのに、この後悔だけは消えません。

 

今でもふと、祖父に会いたくなります。

 

 

*  *  *

 

 

私の大きな心残りは、祖父に夫を紹介できなかったことです。

 

 

アメリカ人の夫を祖父はいったい、どう思ったんだろう。

 

「元敵国」とまではいかなくとも、青春時代を失いながら戦った相手国の人間を、本当に快く迎えてくれただろうか。

 

未来の孫娘が敵国の人と結婚するという、青春時代は想像もしなかった展開に「人生はおもしろい」なんて言ってくれたかな。

 

どんなふうに夫と話したんだろうか。

 

もういない祖父を思いながら、記憶の中の祖父の笑顔を思い出す。

 

 

ちょっとハイカラな人だったから、きっと嬉しそうに握手でもしてたんじゃないかな。

 

 

記憶の中の祖父は、いつも笑顔で優しいおじいちゃん。

 

 

 

 

なんて想像しながら、ふと祖父を思い出した8月15日。

 

 

夫のこと

私の夫は典型的なポジティブ思考のアメリカ人です。

日本文化大好き、アニメ大好き、日本のごはん大好き!なので本当に一緒に生活しやすいです。

 

私と夫はふだん、第二次世界大戦のことについてガチガチに討論なぞしません。笑

お互いの国の立場もあるし、受けた教育も違うので、あえて自分の価値観を押し付け合うことはしないからです。歴史というのは国によって見方が違うということを、言わずもがな、お互い理解しています。私たちは専門家でもないので、あえて言い合いたくもないですし。

 

あと、なによりも・・・

日本にとって自国が当事者になった直近の戦争は76年前の第二次世界大戦だけど、アメリカにとっての直近の戦争って6年前(2015年)のアフガニスタン紛争?
戦争じゃなくて紛争だし、規模も違うけれども。

 

なんかもう、時代が違いすぎる。

 

たぶん、両国にとっての第二次世界大戦への思いは明らかに差がある。

76年間ずっと戦争してない国と、76年間ちょこちょこ戦争してる国だから、そりゃ認識も違うな、と思うんです。

※あくまで、私の意見です。歴史の専門家でもないので、本当に個人的な意見です。

 

 

だから、そういう理由もあって、あまり話しません。

夫から真珠湾攻撃の話を振られたこともありませんし。

夫の親戚に第二次世界大戦に参加してた人がいないってのも、あるかもしれませんが。

 

 

これが、アメリカ大好き!アメリカNo.1!!アメリカが正義!!!な愛国心が強すぎる夫だったら、私はきっと耐えられなかっただろうなと思います。笑

 

 

そして、過去を引きずるよりも未来の話をしたがる夫を見ると、後ろばかり見るんじゃなくて、私たちは子孫として新たな歴史や関係性を築いていかなければならない、新しい世代なんだと強く感じます。

 

 

 

子どものこと

実は私、現在妊娠39週目のバリバリ臨月妊婦です。

このブログでは子育て&バイリンガル教育について発信します!なんて書いておきながら、実はまだジュニアはお腹の中です。今後生まれたら、色々体験をもとに発信していこうと思っているので、詐欺ではないつもりです。笑

 

はてさて、最近思い悩むのが、このジュニア教育です。

私にとってジュニアは日本人の子供なんですけど、夫にとってはアメリカ人の子供という認識の差に今さら気づくという・・・笑

 

 

どれだけ「あなたは半分日本人よ」と言ったところで、ジュニアが育つのはアメリカです。そりゃ心もアメリカ寄りになるだろうな、と思うんです。

 

 

母としては今からそれがすでに寂しい。

 

 

きっと、先輩ママたちはとっくに乗り越えてきたんでしょうけれど、やっぱりふとブルーになりますよね。私はアメリカ人を産んだのか??って。

 

 

答えはきっと「自分の子供を産んだ」しかないと分かってるんですが。

 

 

思い悩みすぎだよ~という意見はごもっとも。

わかってはいるんですが、なかなか心の準備ができません。

 

 

例えばこの先、ヒロシマ・ナガサキについて興味が出てきたら、日本人の私としては日本寄りの意見を伝えると思います。でもジュニアはアメリカ寄りの考えも持つわけで・・・それで本人が消化できれば良いですが、どっちかに寄り過ぎても親としては嫌だなぁ、とか。

 

 

今から考えても仕方のない事ですが、8月15日に考え出すとキリがない。

きっと祖父のこととか、原爆のこととか、色々な感情がこの日にやってくるから、考えてしまうんでしょうね。

 

 

ジュニアにはジュニアの人生があって、考え方もある。

「半分は日本人なんだから」と押し付ける教育ではなくて、両国の認識を知って考えてほしい。

まだ見ぬ我が子へ、少しでも良い母親であろうとする私のエゴかもしれませんが。

 

 

最後に

重々しいタイトルをつけたわりに、ただもやもやを吐き出した記事です。

 

 

戦争花嫁として戦後すぐにアメリカへ渡った女性たちや、日本とアメリカの狭間で悩んだ日系人、中国残留孤児、戦争孤児などを思うと、私の言葉はなんて薄っぺらく、恥ずかしい。

今の私には理解できない、抱え切れない思いや葛藤がそこにはあったはず。

 

戦争で亡くなった方の無念は当然のことですが、生き残って、生きていかなければならなかった方は一体どんな気持ちを抱えながら生きたのか。

 

焼け野原から、また一からやり直した日本人の強さにばかり目を向けるけど、そのスピードや精神の変化についていけなかった人は多かったんじゃないだろうか。

 

 

もっと話を聞きたかった。

 

出来事や事実だけではなくて、そこで何を感じたのか。

何を思いながら戦後を過ごしたのか。

 

今となっては聞くことができない祖父の思いは、誰か受け継いだのだろうか。

 

私はもっと知りたかった。

 

知って、夫と話して、子どもに伝えたかった。

戦争の悲惨さを無念を伝えたかったのもあるけれど、何より祖父をもっと知ってほしかった。

 

 

 

戦争世代の祖父に、戦争の虚しさを教わり

 

夫と現在の両国の認識の違いを考え

 

子どもに未来を託す。

 

 

 

書き出してしまえば本当に軽い言葉になってしまったけれど、【過去・現在・未来】とつながる世代で戦争について今できることはコレしかないんじゃないかな。

 

 

 

8月15日。

 

何でもない1日に変わっていく時代の流れは仕方なくても、記憶の中の祖父を思い出し、もやもやした感情やこれからの未来を考える1日であってほしい。

 

 

*  *  *

 

 

本当に言いたいことがまとまらなくて・・・

支離滅裂な駄文になってしまった。

 

文章を書くって、難しいことですね。

今後、考えがすっきりしたらリライトします。笑

 

最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

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